夕時の下町の商店街などでは店の焼き台の上のウナギを店主がうちわで必要以上に(!?)あおって、食欲をそそる匂いと煙を周囲にふりまいているという昔ながらの光景がある。これは「匂いマーケティング(scent marketing)」という販売促進の手法だ。食べ物に関しては絶大な効果を発揮する匂いマーケティングだが、実はさまざまなビジネスで匂いマーケティングが広く用いられて有効に働いている。その中には一見かなり意外な業種も含まれているのだ。
■意外過ぎる良いホテルの条件
食品店や飲食店以外でも、現場の購買客に大きな影響を与える“匂い”はさまざまな業種で活用されている。気づくと気づかざるとに関わらず、デパートからスーパーマーケット、自動車販売のショールームまで、来店客の気分に働きかける匂いが“仕掛けられて”いる。匂いマーケティングが積極的に実施されている業態の中でも、見過ごせない(嗅ぎ過ごせない!?)効果を発揮しているのがホテルであるという。
インドの研究者、シューバン・チャタジー氏がマーケティング情報誌「International Journal of Trade and Global Markets」で発表した研究によれば、ホテルの経営において従来の美観を重視したマーケティングよりも、ロビーや客室の匂いが重要であることを指摘している。ホテル滞在の楽しさを演出するうえで、匂いは鍵となる要素であるということだ。
インド・コルカタ(カルタッタ)の高級ホテルの宿泊客に対して行なわれた調査によって、宿泊客の41%が良いホテルの条件に匂いをあげていることがわかった。滞在の満足度を占う要素として、施設の設備や料理、接客よりも匂いが重要であるという驚きの調査結果が導き出されているのだ。
しかも匂いの持つ効能として、思い出に深く関わっていることがわかっている。以前に行なわれた研究では、記憶を呼び起こす要素の35%が匂いであるという。一方でビジュアルはたった5%で、音声は2%、手触りなどの触覚は1%であるという。文字通り“懐かしい匂い”は考えている以上に多いということになる。
したがって、匂いの良いホテルに滞在した体験はよい思い出になって比較的頻繁に思い出され、また泊まりたいという気持ちにを起させリピーターになりやすくなる。ロビーの匂いも印象的なものになるが、特に清潔なシーツの匂いは多くの人にとって食べ物の匂いに勝るとも劣らない幸せな匂いであるということだ。匂いがもたらす影響は、ビジネスをはじめとしてさまざまな分野でヒントになるのではないだろうか。
■なぜ自分の体臭が自覚できないのか?
訪れたホテルの匂いはかくも印象深いものになっているのだが、一方で自分の部屋の匂いや自分の体臭については、ほとんどの人は無頓着で実際に匂いが感じられないのではないだろうか。他人にしてみればかなり強烈な匂いであっても(!?)本人が自覚できないのはどうしてなのか。米ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるモネル化学感覚研究所の認知心理学、パメラ・ダルトン研究員はこの現象について研究を行っている。
ダルトン氏によれば、我々の嗅覚は新たにもたらされた匂いにきわめて敏感である一方で、すぐに脳が匂いに慣れてくるということだ。たった2回の呼吸で、新しい匂いへの“反応スイッチ”を切り、徐々にその匂いに慣れて感じなくなってくるという。
このメカニズムについてはまだよくわかっていないのだが、ダルトン氏の説明によれば周囲に新たな匂いがもたらされた時に、いち早く気づけるようにするための働きだという。したがって、自分の体臭や自分の部屋など、馴染みの匂いに囲まれている“自陣”こそが最も異変に気づきやすい安全な場所ということになる。逆にホテルなどでは匂いの変化に常に敏感になっていることから、その結果として印象深く思い出に残る記憶にもなると考えられる。
そして面白いことに、長い旅などから戻って来たときは、ある意味で本当の自分の部屋の匂いを再確認することになる。さらに興味深いのは、匂いに慣れるメカニズムは単純に時間だけが影響しているのではなく、経験に基づく修正が行なわれているという。
ダルトン氏が過去に行なった実験では、3つのグループに同じ匂いを嗅がせて、それぞれ別の匂いであると説明した。Aグループには熱帯雨林の匂いであると伝え、Bグループには実験室の普段の匂いであると説明し、Cグループには工事現場の工業溶剤に匂いであると伝えた。もちろん、この中では工業溶剤の匂いが最も人体に危険なものである。
結果は、同じ匂いであるにも関わらず、Cグループが匂いを最もネガティブなものに感じ、慣れるのに時間がかかったということだ。つまり危険に思われる匂いは警戒が長引くということだ。何気なく嗅いでいる匂いでも、我々はかなり複雑なメカニズムで反応しているということだろう。
■香りは仕事の能率を高める科学的な手段
まさに“危険な香り”をいち早く察知できる我々の嗅覚であるが、もちろん芳しい香りは気分を健やかにする作用もある。古代中国には「香りは薬である」という言伝えもあるほどだ。香りはメンタルヘルスに寄与し、さらには身体の健康を増進するものにもなるとも言われている。
男性用フレグランスとして各種の香りがもたらす効能は一般的に以下のようなものである。
●ペパーミント、蘭
仕事における思考の明晰さ、注意力の向上に寄与する。
●シトラス
新たな1日のはじまりを気分を高めて楽しくスタートさせるエネルギーをもたらす。
●花の香り全般
午前中後半から午後の疲労で低下してくる集中力を高める。
●ヒマラヤスギ(シダー)
ランチタイムから午後にかけての疲労感を緩和する。
オフィスにおける生産性の向上が香りによってもたらされることも実証されており、また逆に悪臭によって頭脳労働のパフォーマンスが低下することも指摘されている。
今後はまさに香水健康法、香水仕事術、なるものも開発されるのかもしれない。日々の仕事と生活の中で香りを効果的に活用することを考えてみてもよさそうだ。
参考:「Well Being」、「Monell Chemical Senses Center」ほか
文=仲田しんじ
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