人は迷う生き物だ。シンプルに生き残ることを第一優先にしているほかの生物に対して、人間の場合は使命感やプライド、利他主義などさまざまな要素が複雑に混ざり合い、その意思決定は一筋縄ではいかない。どちらを選ぶか迷った時、誰かにそっと腕を引かれたら確かについて行ってしまうかもしれないが……。
■ノーベル経済学賞を受賞した“ナッジ理論”とは
行動経済学の研究が進むにつれ、人間の行動は必ずしも経済合理性を追求しているわけではないことが浮き彫りになっている。これらは“バイアス”という呼び名をつけられることが多く、代表的なものには確率的に得をする可能性が高い選択肢があっても変化を避ける“現状維持バイアス”や、何事においても自分は平均以上の存在であると思い込んでいる“優越性バイアス”などがある。
そして2017年のノーベル経済学賞を受賞した研究であるナッジ理論は、こうした行動経済学の成果を総動員して、人々の“背中を押す”技術の総称である。語弊はあるが広い意味での人心操作だ。
何らかの罰則を設定して、恐怖で人心を誘導するのではなく、あくまでも自由意志に訴える形でありながらも行動経済学の知見を駆使して意思決定に影響を及ぼすのがこの“ナッジ理論”の特色だ。人心操作という点ではそのぶんなかなか性質が悪いという言い方もできそうなのだが……。
「人々がどのように考えているかを知ることで、ナッジ理論は家族、社会に最適なものを選ぶことが容易になります」(『実践行動経済学:健康、富、幸福への聡明な選択』より)
ナッジ理論が有効に作用した例としては、2012年にはじまったイギリスの貯蓄型企業年金(NEST)の加入への義務化である。これまでは勤労者がこの年金へ加入するかどうかは就業時に確認していたのだが、2012年以降は何の通知もなく特に申し出がなければ自動的に加入することになったのだ。この措置の後、2012年に270万人であった民間中小企業のNEST加入者が、2016年には770万人までに増加した。
また先進各国で臓器提供者の数が増えないことが問題されているが、これもまた自動車免許更新時に臓器提供を前提にして、希望しない人は拒否を意思表示するチェックボックスにマークを入れる方式にしたところ、大幅に臓器提供者が増えたこともナッジ理論が応用されて成功した例である。
そして政治にもこのナッジ理論は実際に応用されている。2009年にオバマ政権は法学者であり経済行動学者のキャス・サンスティーン氏を情報規制問題担当室(OIRA)局長に任命して世論への影響力を高めたといわれている。ノーベル経済学賞受賞でにわかに脚光を浴びたナッジ理論だが、あらためて眺めてみればすでに我々の社会に深く浸透していると言ってもよさそうだ。
■肥満児童の問題に挑むナッジ理論
さまざまな分野に応用が可能なナッジ理論だが、イギリスでは児童の肥満を防ぐ試みでナッジ理論の手法が用いられている。
英国公衆衛生サービス(Public Health England)とダービー大学の研究者たちは、ナッジ理論を応用したデザインの印刷物を配布することで、小学生の親たちが子どもに持たせるお弁当(持参するランチ)がより健康的なものになる可能性が高いことを指摘している。
2012年の研究では、可愛くリンゴがデザインされたバッチを子ども(8~11歳)たちに与えることで、ランチにリンゴを選ぶ子どもが増えたことが確かめられている。同様のことが、今度は親たちを対象に行なわれたのだ。
イギリス国内の17の小学校に通う7歳から11歳までの子どもを持つ親に対して、4週間にわたって健康なお弁当の内容を簡潔にビジュアル解説したプリントが配布された。
プリントを配布する前に子どもたちのお弁当の中身を撮影していたのだが、内容がどのように変化していったのか現在分析中であるということだ。
現在イギリスでは4歳と5歳の子どもの9.3%が肥満に分類され、10歳から11歳の子どもについては19.8%に上昇しているということで、肥満児童対策が急がれている事情がある。児童が持参してくるランチの内容については、たった1%が栄養面での推奨基準を満たすに留まり、82%は不健康なスナック類を含んでおり、61%が糖分を含んだドリンク類を含んでいるという。
これまでの研究ではランチの内容を変えさせる有効な方法が見つかっていないこともあり、このナッジ理論を用いて食習慣を変えることが期待されているのである。このように意外な分野でもナッジ理論の応用が現在進行形で進んでいるのだ。
■ナッジ理論のダークサイドとは
さまざまな分野でナッジ理論の応用が期待され、社会に明るい未来が拓けていると言えるのだが、“人心操作”という点では当然ながらよからぬ意図で用いることもできる。英・ウォーリック大学の研究者、フィリップ・ニューオール氏はイギリス国内のギャンブルでナッジ理論が“悪用”されていることを指摘している。
ブックメーカーの存在によって、あらゆるものが賭けの対象になっているイギリスだが、ブックメーカーやギャンブル関連企業がナッジ理論を用いて収益を高めているとニューオール氏は主張している。
賭け事の基本は“丁半”のような確率2分の1のどちらかを指定することだが、ご存知のようにこれでは勝ってもたいした金額にはならない。したがって公営ギャンブルにおいては賭け方を複雑にしてそれなりの見返りが期待できる選択肢を用意している。そしてニューオール氏は、ブックメーカーたちはナッジ理論を駆使してより魅力的に見え、しかもブックメーカー側の収益率が高い選択肢を提供していると説明している。
例えばサッカーの試合で勝ち負けだけの賭けの場合、ブックメーカーの収益は総賭け金の平均5.7%にしかならないが、「Aチームが2-1で勝つ」というオプションではブックメーカーは平均23.4%の収益をあげられるという。
現在イギリスでは年間160億ポンド(約2兆4000億円)以上の金額がギャンブルで失われている。政府がギャンブル関連企業に“自由”を与えすぎていることに、もっと社会的な関心が向けられなければならないとニューオール氏は主張している。そして こうしたナッジ理論の“悪用”はギャンブルのみに留まらず、カードローンや分割払いの複雑な利率にもみられるということだ。ナッジ理論にもこうしたダークサイドがあることを知っておくべきだろう。
参考:「Schools Week」、「Behavioral Scientist」ほか
文=仲田しんじ
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